院長のコラム

動物病院HOME < 院長のコラム < 夏の読書

夏の読書
夏の読書

定期的に読み返したくなる本がある。

いつかのコラムでも書いたよしもとばななさんのキッチンなのだが、そこに収録されているムーンライトシャドウもこれまた中毒性がある。

読んでいる方も多いと思うので内容に触れることはしないが、静かに流れる夜の川をイメージしてもらえば良いと思う。 川縁のあの湿り気帯びた独特の空気のなかに身を浸し、この流れがどこから来てどこにいくのかぼんやりと考える感じ。

波がとぼけた半月の薄い光を反射して、三角形の鏡面を幾つも作り上げて水面を飾り付ける。その下の見えない川底の泥の中に何が眠っているのかを考え、胸の中にたまっている汚泥をそれに重ねたりする。

何処かでひっそりと眠る魚や、小さなあぶくを吐きながら腐肉を食む蟹や、自由自在に泳ぎ回る水性昆虫や、そろそろと底を這う貝達を抱擁しながらただ流れるその動きに何処か見とれてしまう。そんな夜の川である。これは私見だ。

実際には大きな喪失に打ちのめされて身動きが取れなくなっている主人公に、少し不思議なことが起きてそれが前に進むきっかけになるという、とても前向きな作品だ。

ただその喪失の描き方があまりにもリアルで本気で心の奥底をえぐるし、そのくせ何処かその様が美しくて悲しくなるほどなので、読むと必ず泣いてしまう。

真っ暗な喪失の中で月の光のようにさえざえと冷たくて白い光が一差しだけ見える。それを希望というのかもしれないし、人によっては絶望なのかもしれないのだけど、あまりに儚いくせに強い白さで、忘れることができない。強烈に印象を残し、読後とてもせいせいとする。

普段生活をしているとどうしても、誰でも、泣きたくても上手く泣けないことがあると思うのだが、そういう時に読むと決めている。上手く涙腺を決壊させてくれるので、もってこいなのだ。泣いてやった!という満足感がすごい。

hr

誰かを責めたり怒ったりするのではなく、全く異なる誰にも迷惑をかけないところで思い切り泣くのは爽快だ。

映画や小説やドラマなどはそういう時に強いし実力を発揮してくれる。特に映像化されたものよりも文字で表現されていると思い切り自らの想像力に頼って、全力で思い通りのひたり方ができるので最高だと思う。俳優の演技に違和感を覚えたり、作画に疑問を感じたり、声優さんの好き嫌いで動かされることがない。素晴らしい。

文字の強みは受け取る側に依存したイメージの展開だが、しかしながらこれは諸刃の剣だ。受取手側に想像の翼がないと、全く世界が広がらないからだ。

たとえば大きな森の小さな家シリーズで(子供の頃から大好きな作品なのです)グレービーソースというのが繰り返し出てくるのだが、私が子供の頃はそんな名前のソースはお目にかかる機会がなかった。インターネットがある訳ではない。図書館で調べても焼いた肉から出る汁を使ったソースというだけで、もう見た目や味は想像するしかなかった。でもステーキの肉汁をみてこういう味かなと考えたし、肉じゃがの豚肉の脂が煮汁にしみでるのをみながらこういう味かなどと考えた。積み重ねた記憶で、未知のものを想像したけれど、けれどもし肉自体食べないベジタリアンだったら、想像にも限界があっただろう。極論です。

ちなみにギリシャ神話に出て来るオリーブの実は何かとても甘い物だと思っていて、初めて食べたとき吐き出しそうになったことがあるのだが、あれは想像と現実のギャップが体感できた素晴らしい体験だった。そういうこともある。

でも全て頭の中にしまったいろいろな知識を総合した結果、得られる感情だったりする。悲しいという意味を知らずに悲しみを自覚することはできない。

多分胸がいたいとか、息がしにくいとか、お腹がいたいとか、そういう実際に肉体が得る痛みの感覚が悲しみであるとどこかで知って、それに名前がつくのだ。

hr

今はスマホで調べたらいくらでもデータが出てくるのでとてもありがたいのだけど記憶に残しにくい。

調べればすぐ分かるから、脳内の図書館にしまうことが少ない。よって自らが何かに対して作り上げるイメージが貧困になる気がして怖い。得られるはずの感動や衝撃が希薄になってしまいそうで怖い。

うっすらと水面に漂うようなものを掬い上げて得ることができた感情が、刺激の強く分かりやすい言葉や音でないと得られなくなってしまう気がする。

辛いものが好きで食べているうちに、辛さを感じるセンサーが麻痺していくら唐辛子の量を増やしても汗すらかかなくなるのに似ている。

少し前に一般的とされる恋愛小説のようなものを読んだのだけど、少し驚いてしまった。すごく簡単にかっこいい、可愛い!が連呼されるのだ。

主人公が相手の男の子を表現するのに、背が高くて目が黒くてかっこいいと表現する。

間違ってはいないのだけど、間違っている訳ではないのだけど、恋愛小説的なジャンルであればいかに直接的な表現を使わずにかっこよさや背の高さなどを表現してなんぼではないのかと思ってしまう。

たとえば、彼の目の色は冬の夜の海を閉じ込めたような色をしていて、その双眸を見つめている時だけ、まるでしんと凍える海に対峙しているように心が静かになるのだった、とかね!陳腐な言い回しで失礼します。

直接的で分かりやすく、短い表現でしか、もし理解できない読者が増えてしまっているのなら、それは小説業界の敗北なのでは……とかなんとか思ってしまうが、これも私見です。

だが周りに聞いてみると『本自体全く読まない』という人が少なくない。文字を見ると疲れてしまう、や最後まで読み続けられない、などという意見を聞くために悲しくなる。

先が気になりすぎて、もう寝なさいと怒られても隠してでも読むような、ああいう衝動を覚えたことがないのだろうか。なんて寂しいことだろうか。

子供の頃に絵本を読んでもらってからこの方、福音館、岩波文庫、青い鳥文庫をへて、一般的な文庫にたどり着いた私は、無事に読書ほどの快楽を知らないので想像が難しい。

先が気にならない本しか巡り会えなかったのならなんて不幸だ!と思ってしまうくらいに。

hr

さて、大好きな言葉に
『愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。』
Nicht durch Reden oder Majoritatsbeschlusse werden die grosen Fragen der Zeit entschieden, sondern durch Eisen und Blut -- Zitiert nach: Wilhelm Schusler (Hrsg.), Otto von Bismarck, Reden, 1847-1869, in Hermann von Petersdorff (Hrsg.) Bismarck: Die gesammelten Werke, Band 10, Berlin: Otto Stolberg, 1924-35, S. 139-40.
いわゆる『愚者は経験に学び、賢者は歴史から学ぶ』というのがある。

全くの真理だなあといつも思う。他人の経験をつみあげたものを紐解いて自らの血肉にできなければ、人はなんて切なく矮小な生きものになってしまうことか。

たった八十年ぽっちの時間で経験できることには限りがある。でも歴史に学べば世界はどれだけ広がるだろうか。

心を豊かに暮らすために知識も知性も要る。それを身につけるのが教養というやつではないかと思うのだが、どうもそれがちょっと馬鹿にされるというか、教養なんて鼻持ちならない態度取りやがって!みたいな意識があることが悲しい。

日常の些末なこと、例えば星を美しく思うことに、さらに喜びや楽しみが加わるのは、その星の名前を知っていたり、星の現れる条件を知っていたり、恒星なのかはたまた惑星なのか、気体なのか地面があるのか、地球からの距離はいくらで、あの赤い色はなぜそう見えるのか。あの星が使われる星座はなんというもので、その神話にはこういう話があって……と広がる知識があるからだ。

それを吸収するためには愚直に読書を重ね、人の話しを素直に聞き、世間のニュースに耳を澄ませ、色目のない見聞を広めなくてはならない。

ショートカットキーはないのだ、残念ながら。

そんな訳で夏は読書の季節です。皆さんのお気に入りの一冊がお休みの良きお供になりますように。

2019-08-15

院長のコラム トップ

「うちの子の様子がおかしい?」「狂犬病の注射を受けさせたい」「避妊手術はいつすればいいの?」など、お気軽にご相談ください。

「うちの子の様子がおかしい?」「狂犬病の注射を受けさせたい」「避妊手術はいつすればいいの?」など、お気軽にご相談ください。

tel03-3809-1120

9:00~12:00 15:30~18:30
木曜・祝日休診

東京都荒川区町屋1-19-2
犬、猫、フェレットそのほかご家庭で飼育されている動物診療します